観劇ディスカッションブログ

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レポート:中濱 博

2011.04.14 Thursday | 第3回

時間堂「廃墟」ワークインプログレス
シアターKASSAI

震災の影響で本来見る予定だった公演から変更して、ワークインプログレスという、通し稽古を見学するという企画に参加をした
照明は劇場の蛍光灯で行われ、本来の効果は得られなかったそうだが、作品の内容的に大きく魅力をそがれるということもなかったそうだ
実際作品の内容は会話を主体とした戦後の時代劇で、派手な音響や照明効果を使用しない類の舞台だった

廃墟という戯曲は、三好十郎が戦後すぐに書いた作品で、50年以上も前の作品である
古典でもなく、最近の有名賞を取った作品でもない、ましてやオリジナルでない戯曲の上演を見るのは新鮮だった
時代的には近いようで現代とはまったく違う状況で書かれた戯曲のはずだったが、現代の我々に十分響く内容だった

なぜ時代を超えて現代人の心に響くのか
演出家、俳優が現代人であるというのはひとつ大きな理由だろうが、これは題材としているテーマが人間の本質的なところから引っ張ってきているからだろうと考えられる

ディスカッションでは空間の使い方や小道具の処理や、言葉使いが話題になったことが印象に残っている
空間の使い方は、袖を作らず、邪魔になりそうな柱をうまく使い、劇場の空間をうまく使った舞台だった
また日常劇だが具体的なセットを組まずに、シンプルなつくりだっただけに、人々のやり取りに集中できた
言葉遣いは戦後の小説の登場人物が使いそうなものだったが、俳優は自分のものにしていて、聴きなれない言葉ばかりであったが、理解はしやすかった
実際演出家の方も気を使った点だと話していた



ゲキバカ「ローヤの休日」
王子小劇場

二日目昼に見た舞台
照明、音響、パフォーマンスをふんだんに使い、三方に客席を配置する舞台だった
よく動き、よく脱ぎ、客席は気持ちよく盛り上がっていた

この芝居の中で気になったのがパフォーマンスの作り方
キャラがそれぞれ立ち、ストーリーがわかり、ダンスや構成で面白くみせる
メインのパフォーマンスは劇中二回繰り返されたが、飽きることなくみることができた

この作り方に関してはディスカッションの中で検討され、おそらくこう作ったのではないかという話はされた
作り方自体はキャラを先に作り、プロットを作り、そこから振り付けをするというものだが
こういった技術的な議論までなされたのはディスカッションの成果であるといえる

またこの作品はパフォーマンスだけでなく、ストーリーでも凝ったつくりがされていた
パフォーマンスでもそれぞれの役が立っていたからだろう、ダンスなどが入っても浮くことはなかった
作品の中でのパフォーマンスの使い方のようなものを学ばせてもらった



パラドックス定数「Nf3 Nf6」
アートコンプレックス・センター

二日目夕方に見た舞台
美術館のような空間で、いす二つ、テーブル一つにチェス板、薄暗い空間で行われた二人劇
客席は部屋の両サイドに設置され、縦長の空間を使用しての芝居だった

設定は複雑に絡み合い、伏線の張り方や設定の結び付け方は脚本にうまく練りこまれていた
これはディスカッション中に気がつかされたが、たとえばこの戯曲で象徴的にも扱われているチェス版
これを中心に数学、戦争、ゲーム、そして過去の話を結び付けていた
ドラマを展開させながら象徴を中心に情報を開示していく手法はとても勉強になった

また、小部屋で実際現在に行われているやり取りと錯覚するような舞台だったが
設定ではナチスのユダヤ人収容所であったが、たった今虐殺から逃れたところから物語は始まり
終わったら理不尽な将校の待つ強制労働所に帰らなければならないといったように
演技だけでなく戯曲にも小部屋の外を想像させる表現がちりばめられていた

作品を見ているだけでは気づけなかった細かいテクニックなど
ディスカッションを通して戯曲における伏線の使い方や意味などを勉強させてもらった



青年団若手公演「バルカン動物園」
?こまばアゴラ劇場

三日目に見た舞台
生物学の研究機関を舞台にした、命を研究する人たちの物語
まさに問題作と言える作品ではないかと考える

登場人物たちは、人間の器官を人工物と差し替えていき、どこまでが人間と呼べるか
また自分の息子を救うために何匹ものサルを研究目的で殺すのは正しいことか、などの議論を、感情論や論理を交えて展開させる
人間と物の境目があいまいになり、不快感を覚える人は多くいたと思う

バルカン動物園は平田オリザさんの同時多発会話劇という形式の劇で
この形式のものは初めて見た
事前に聞いていた印象では、あっちこっちで会話が進行する劇というだけのものだったが、実際見てみると、細かく整理と計算がされていてすんなりと受け入れることができた
聴かせたいところで別展開の会話を重ねて注意を引いているのも、この形式ならではの演出方法であろう、新鮮だった

客入れの段階から舞台上では演技は始まっており、その研究機関の日常を演出していた
いつしか私も、いかにも日常を覗いているかのように錯覚し
劇が終わり、急に俳優が全員席を立ち、礼をしたときには心臓が跳ね上がった

この日常に客を入り込ませているからなお、当たり前のように命を研究している研究者たちに嫌悪感を抱いていたのかもしれない
だがただ嫌悪感を抱かせるための演出ではなく、それ以上にべっとりと伝わってくるものがあったし、ディスカッションツアーで見た演劇の中では一番印象に残っている
好みの問題で、私はこれほどまでに嫌悪感や不快感を演出して印象に残すような舞台は作らないと思うが、手法としては勉強になった
そして、ただ嫌な人間がいるということではなく、繰り広げられる議論の中で発生するイデオロギーが重要であることもわかった

テーマは重く、難しい問題だったが、それだけに一番印象に残った作品だった



まとめ
東京に触れて

たった三日間のディスカッションツアーであったが、とても密度の濃い滞在だった
芝居を見る間隔、人の数、ディスカッションといった要因は当然密度の高まる要因であろうが
人口密度の多い土地の特性として、人と人との距離が近い、ということを感じだ

と言うのも、今回私は鉄道の駅を中心に活動をしていたわけだが、駅にしろ電車内にしろ、常に地方ではあまりない満員状態が続いていた
結果知った顔もそうでない顔も常に接近している状態に置かれる
こうなると心理学的なものか、人間関係というのは近くなるように感じられた
こういう環境にあると人と人が心理的に接近するのも、地方より早いのではないかと考えられる
よって心の距離を埋めるべき時間が短縮され、企画にしろ具体的な話をはじめる地盤が出来上がるのではないかと思う
いわゆるノリがいいという心理状態に置かれるのだろう
これが私の住む大分との違いで、時間の密度を高めているのではないかと思う
もちろんモチベーションの高い賛同者が多いというような要因も大きいのだろうが、こういった印象を実感した

こういったモチベーションやノリは、東京などの都市のようには行くはずもないし、期待してはいけない
土地ごとの時間と言うのはとても大事だし、そこからしか生まれないものもある
やはり、自分の住んでいる土地としっかり会話をし、特性や求めているものを考え、感じて独自の文化を根付かせることが大切だと思った

ディスカッションツアーでは技術的知識や出会いなどとても大事なものもいただいたが
東京という土地でしか感じられないものも少しはもって帰れたのではないかと思う
ぜひ私のように九州に引っ込んでいるような人は参加してみるといいのではないだろうか
とても学ぶことは多かったが、何より楽しかった、お世話になりました


nakahama
  
  
  
  
  
  
  
中濱博(第3回) | comments (894) | trackbacks (0)

レポート:太田 美穂

2011.04.13 Wednesday | 第3回

○はじめに
私は、18の頃からずっと、演劇を中心に行きてきました。
「演劇をする事は生きる事」「生きる事が演劇である」と思っていました。

3月11日、日本は大変な事になりました。
当たり前だと信じていた日常が、当たり前でなくなってしまいました。

稽古も休みにし、観劇も行かず、
何をする気も起きず、毎日、情報を集め、過ごしました。

ディスカッションツアー、行くかどうか、迷いました。
色んな意見を、色んな人にいただいたのですが、最後には、「行く」と決めました。

私が東京に行く事が、自分の生きる理由に繋がるのかもしれないと思いながら。



○3/25 19:00 時間堂「廃墟」ワークインプログレス シアターKASSAI

昭和初期から終戦後の復興期にかけて活動した小説家、劇作家である、三好十郎氏の「廃墟」。
脚本は、「青空文庫」で読めます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001311/files/49718_34062.html
敗戦直後の日本の精神風景を描かれています。

シアターKASSAIは、天井高約4m間口は5.5mの、小さな空間。
暖かい手作り感のある観客席。俳優の息遣いも感じる事が出来る間近な舞台。キャパは最大120とのこと。

舞台装置は極めてシンプル。
黒沢氏の演劇の定義が、ピーターブルックの定義に準じている、と書いてあったのを思い出しました。
「俳優と、それを観る観客がいること」

リハーサルが開始されます。
敗戦直後の東京が舞台。焼跡の洋間を舞台に繰り広げられる、家族の激論。
古い言い回し、長いセリフにもかかわらず、
俳優たちは、セリフに振り回されず、舞台上で呼吸をし、生きていました。

何度も、何度も繰り返される、痛々しい議論。
まるで、震災後の今の自分の精神状態を代弁してくれているかのようで、
動悸と涙が止まりませんでした。

このような居たたまれない関係性の家族の描写に触れる事で、
自分のこころが浄化されていくかのような、そんな不思議な体験をしました。

「信じていた勘違いの日常」が崩壊した今だからこそ、このような物語は、癒しになるのだと思いました。


その後は、劇場と劇団の方々のご厚意で、食事の席に混ぜていただきました。ありがとうございます。
その席で、黒沢さんの演劇論に触れます。

演出家の黒沢世莉さんは、スタニスラフスキーとサンフォードマイズナーを学ばれたそうです。
「舞台の上で深呼吸できる俳優」を育てているとのこと。

何度も読み返している「俳優修業」ですが、黒沢さんと話す事で、また新たな発見がありました。
さらに、学びを深めたいと思いました。

客演の方が多かった事を知り、驚きました。
共通の言葉を多く有しているように見えたからです。

次の日のディスカッションは、大いに盛り上がりました。

緊張感のある会話をどうやって作るのか。
空間の作り方。立ち位置から作る関係性。リアクション。
セリフがない時の佇まい。
計算された上で、人が配列されているという話をしました。

今回のディスカッションで「ダメ出しをしない」と最初に約束した事が、良い方向に働いた気がします。
解釈についても、掘り下げました。まったく自分と正反対の意見も出て、大いに刺激になりました。
「自分だったらどう演出したいか」という話もしました。

私自身は、特に、三好十郎さんの、人間に対する絶望と愛情が伝わってきた事を、話しました。
すでにはじまっている新しい時代には、三好十郎さんの、真摯な人間愛に満ちた作品が必要なのではないかと思いました。



○3/26 14:00 ゲキバカ「ローヤの休日」王子小劇場

「精一杯、演劇をすることを誓います。」

パンフレットの挨拶の最後は、こう締めくくられていました。

大きめの地震など不測の事態が起きた時の対応避難路案内図などを見ると、
この劇団が、どれほど、お客さんを大切にしているかは分かります。

中央に舞台があって囲むように客席があります。
最初から、勢いのある役者の演技にびっくりしました。
観客席が、温まっていたところを見ると、ファンも多いようです。

物語は、監獄からの脱走劇。
死刑が確定している男のもとに、かつての仲間たちが現れます。
仲間たちと共に、男は脱出を図る…

…と、書いてしまうと、重く暗い物語。
劇中に織り込まれるダンス、マイムパフォーマンスシーンが、暗さを感じさせません。
ただ、明るいパフォーマンスが、さらに、悲しみを増幅させるようにも感じます。
ほぼ全裸の男性たちが、観客席を見ながら踊る姿は、ちょっと、目のやり場に困ってしまいました。

劇団名や、繰り返される下ネタ、派手なパフォーマンスに印象を奪われがちでしたが、この劇団の根底には、「愛」がありました。
セリフの端々、演出の優しさ、親切さ、「人を楽しませよう」というキャストのサービス精神から、ひしひしと「愛」を、感じます。
感情解放された役者が、生き生きと動きまわる。そして、観客は、ドキドキして、笑って、心を奪われる。
それは、ただ、ただ、ひたすらに、幸福な時間です…。

現実を突きつけられたようなショックを受けた「廃墟」と違い、
「ローヤの休日」は、非日常の空間から、生きるエネルギーをいただく事が出来るような作品でした。

役者が「お見送り」をしていました。
この劇団がいつまで、「お見送り」が出来るのかは分からないけど、
お客さんとの出会いを大切にしているからこそ、しているのだと思いました。

その後のディスカッションでは、マイムパフォーマンスのこと、
秀逸に折り込まれた効果音のこと、照明効果の素晴らしさ、
役者の技量の話をしました。


○3/26 パラドックス定数「Nf3 Nf6」アートコンプレックス・センター

アートコンプレックス・センターは、新宿区の閑静な住宅地にありました。
天井の低いギャラリーの一室に設けられた、シンプルな、空間。
極端に少ない照明。

パンフレットの言葉に、魅了されました。
「匂いを感じて温度を感じて感触があって、その次に音が聞こえて、最後に景色が見えるのです。」
野木萌葱さんは、このように、脚本の言葉を紡ぎだしているそうです。

脚本の言葉が出て来る時、まるで自分の意志とは別の何かに突き動かされて出て来る時があります。
それを「ひらめき」と呼んだりするのかもしれませんが…
野木さんは、いつも、そんな奇跡の中で、物語を作っているというのでしょうか?

そう思っているうちに、役者が出てきて、静かな観客席の空気が一気に変わりました。
明りが変わったか変わらなかったか気付かないまま、舞台上に注意が向かいます。

「Nf3 Nf6(ナイトエフスリー ナイトエフシックス)」は、
虐待が繰り返される収容所での看守と囚人の物語です。看守は将校、囚人は数学者。

「美しい。」

それが、最初に出てきた感覚です。

過剰なアクション・過剰な説明・情感ある音が、一切入りません。
そして、無駄な動きもありません。

役者がすっと立って、チェスを動かす。その一挙一同に目を奪われます。
観客席も、息をのみます。
無駄な動きがないからこそ、役者の立ち姿の美しさ、繊細な感情表現、息遣いを、とても大きく感じる事が出来ます。

こんなに静かで、感覚を震わす表現があるのだと思いました。

この物語でも、人間のドラマを感じる事が出来ました。
そして、観客の存在を、大きく感じました。舞台上の緊張が、観客席にも伝わり、ほっとするところでは、観客席もゆるみます。

脚本の構成が秀逸で、伏線の回収も衝撃的で、
美しい数学を見ているような、心地よさがあります。

ディスカッションでは、伏線の話、余分な力を抜くテクニック、感覚と計算の話をしました。


○3/27 青年団若手公演「バルカン動物園」

猿を人間に進化させるプロジェクトを研究している国立大学の生物学研究室を舞台に、
生命倫理の問題や日本人論、そして立場の違う人たちの倫理観などが描き出されています。

同時多発会話は健在で、どこに光を当てているのかも、計算されていて、
とても分かりやすく観る事ができます。

人間にとって普遍的な問いかけは、それだけで、心を揺さぶります。
脚本を読んだ時は平気だったのですが、
扱っているモチーフの生々しさに、具合が悪くなりました。
生の舞台ならではの、具合の悪さです。
終わった後も、めまいがして、暫く何も考えられませんでした。

ディスカッションも、言葉が少なめに。
ショックが大きくて、何を考えればいいのか、感じればいいか、分からなかったのです。

ただただ、「なぜ、この作品を生み出したのだろう?」という思いでした。

その後、平田オリザさんが、現れて、お話をしてくださいました。

若手公演ということで気をつけた事。
ダメだし内容は、6割がスピード、2割が抑揚、2割が動きのこと…
抽象的なダメだしは、殆どしないということ、
稽古期間の話、脚本のノウハウ…
…そんな、具体的な話を、細かくしてくださいました。

私は、迷いましたが、平田さんに質問をしました。

「なぜ、平田オリザさんは、このような物語を作るのですか?」
「このような脚本を書く事で、平田さんにはどんなメリットがあるのですか?」

私は、その時の、平田オリザさんの言葉は忘れません。



平田オリザさんは、いつも、重い命題を社会に突き付けます。
それは癒しではないかもしれない。時には苦しい時間なのかもしれない。

でも、人には、必要なものであると、信じて、作品を作っているのだと思いました。



○終わりに

最後には、「何のために芝居をするのか」「芝居とは何か」という話をしました。

私にとって…
演劇は、人と人との繋がりの中で、生まれる奇跡です。
演劇は、心に宿る暖かい光です。
演劇は、祈りです。

いま、時代は、大きく変わりました。
これから、もっと大変な時代が来るのだと思います。
そんななかで、私たちは、どう生きるのか、どう関わるのかを問われているのだと思います。

自分の無力さが辛くなってしまう時もありますが、
自分に与えられた体と環境に感謝し、やるべきことを、誠実にやっていく事が、私の仕事なのだと思いました。

この企画に関わってくださった全ての方に感謝します。
ありがとうございます。

ota
  
  
  
  
  
  
  
太田美穂(第3回) | comments (1035) | trackbacks (0)

レポート:江利角 直由

2011.04.12 Tuesday | 第3回

ゲキバカ2011年 春の三大都市巡業 「ローヤの休日」
作・演出 柿ノ木タケヲ

今回、この「ローヤの休日」を観て、やはり脚本と演出が同じと言うことは、作品にとって大切なものだと思った。また、この劇団の持ち味である「エンターテイメント性」が、作品をより面白く引き立てていた。

ローヤの中で繰り広げられる物語で、話はシンプル。すごくわかりやすい。お客さんが、若い人が多かったのもうなずける。気軽に観れる作品だと思う。しかし、作品に登場するキャラクターに1つ1つ物語があるから観ていると愛着が湧いてくる。

ディスカッションでも話題になったが、オープニングのダンスがすごかった。多分、それを全て台詞にすると長く、また印象に残りにくい。ダンスという表現で、説明したいことを十分説明できていた。しかも、それでいて印象に最後まで残った。それは、ダンスという表現が、脚本にマッチしていたのだと思う。そこまでもって来た役者もすごいが、ダンスに切り替えた演出もすごい。

また、お客さんに囲まれた舞台でどの角度のお客さんにも見える工夫、決して広くない舞台で多くの役者がいたが、立ち位置がよかった。

あと、音にまでこだわっているのはディスカッションの時に話題になった。とくに音質である。牢屋の上から落ちてくる雫など、この牢屋がどのような高さなのかも想像できる。このような感じのお芝居は音にこだわりを持つことの大事さを痛感した

最後に、最初から最後まで集中して見れたのは、この作品の随所に飽きさせない工夫がしてあるからだと思う。どの席から見ても芝居を楽しめ、お客さんを大事にすると言う姿勢が全面的に出てきたと思う。僕の劇団も同じようにエンターテイメントな作品なので、すごく参考になった部分の多い作品だった

erikaku
  
  
  
  
  
  
  
江利角直由(第3回) | comments (1234) | trackbacks (0)

レポート:谷 竜一

2011.04.11 Monday | 第3回

今、東京で、「ドラマ」についての覚書 〜時間堂『廃墟』ワークインプログレスを中心として


 東京は暗かった。物理的に。
 眠ることを拒否してきたようなこの街も、夜八時を過ぎれば明かりを落とし、駅のホームには「不要不急の外出はお避けください」の張り紙があった。
 時間堂のワークインプログレスは、こうした状況の中、行われた。
 私たちが観覧したのは、4度開催されたうちの最終回。今回は通し稽古を観覧するという趣旨だった。舞台は照明と、いくらかの小道具を除けばほぼ本番を想定した状態。演目は三好十郎の『廃墟』。作者の戦後4部作と呼ばれるうちの一本。敗戦から暫く立ったある家庭における、登場人物各々の意見のぶつかり合いを描いた作品だ。詳細は青空文庫等のアーカイブに譲るとするが、現代と60年余りを隔てたこの戯曲をどう上演するかは、私にとって大きな注目のうちのひとつであった。
 スタニスラフスキー・システムとマイズナー・メソッドを学んだという演出の元、俳優たちは焦土となった日本で顕わになってしまった家族とその周囲の人々の意見の相違を軽やかに描いていた。シンプルな舞台ながら、中央のテーブルと上手手前の防空壕を基点として、役の心情と関係性の変化に従ってバランスよく導線を描く俳優たちは、演出の空間構成の確かさを感じられた。
特に見応えがあったのは中盤以降、劇団員を中心として、家族間の対話に入り舞台が独特のうねりを生み始めていた。私は見ることはできない本番に期待を持ち、興味を沸きたたされた。
 終戦から1年後に書かれた戯曲ではあるが、上演にあたってのせりふの改変はなし。演出家の弁によれば「耳で聞いて心地よいかをたよりに」構築された発話は、単語単語をつぶさに拾い上げるというよりはむしろ、戯曲のせりふが持つ大きな波を捉えることに主眼が置かれていたようだ。こうした意味では、確かにドラマは進行しているが、それは単なる戯曲の再現ではないことがわかる。
 言葉をいかに取り扱うか、という点は演劇において常に問題である。それが古典ならなおさらだ。それはつまり、その時代の再現をどの程度行うのか、あるいはその戯曲を自分たちにどこまで引き付けるかという問題でもある。時間堂の今回の作品において、軸となっていたのはあくまで俳優の身体である。現代に生きる彼らは三好十郎の言葉を自分の知覚に引き受け、その反射として演技にしてみせた。つまり、彼らにとって「戯曲」とはサーフィンにおける波のようなものか。私にはそう感じられた。
 この劇団にとって上演とは、戯曲特有の物語を再現することではないのだろう。だとすれば、いつ、どのように描かれた戯曲であろうが、関係ない。人間と人間の関係は常に現在のものとしてある。彼らがその身体で関係を引き受ける限り、この魅力はあくまで等身大のものとしてそこに現れ続けるのだろう。

 今回観劇した他の3本は、どうだったか?
 一見して最も近く思えるのはパラドックス定数だが、彼らは俳優ふたりの発話のみを情報源とし、チェス、数学、暗号、戦争を幾何学パズルのように鮮やかに転がしてみせた。その手つきは問題が複雑であるが故に美しかった。その美しさの源泉はとは何か?パラドックス定数もまた、第二次大戦中に時代を設定していたが、彼らの上演は現代日本語戯曲であり、言語が現実に即していたかははじめから問題にされていない。非常に限定的な状況ではあるが、よく似た二人の男がどのように語りあい、交感するか、その様が普遍的であるが故ではなかったろうか。
 また、青年団若手公演『バルカン動物園』はどうか。言語の問題としてはこちらもパラドックス定数と同じことが言える。なにしろ設定が近未来だ、未来の言語なんて分かるはずもない(近未来も大して変わってないんじゃないの、という作家の姿勢は見えるが)。『バルカン動物園』の登場人物は、各々の持つ情報が大いに偏っている。登場人物に意見の齟齬があり、そこから舞台が展開するという意味においては、時間堂との共通点を見ることもできる。だが、時間堂の『廃墟』において、状況こそ戦後の焦土の中だが、そこから生まれる関係は一般的な家族のものにフォーカスし、そしてその関係性そのものを見せていた。対して青年団では、登場人物のフォーカスは解決のしようのない「問題」そのものに合わされている。彼らは同僚・友人といった他人に近いような(少なくとも家族ほど密接ではない)ゆるやかな関係でありながら、その「問題」を共有することで舞台に存在し、それぞれの存在を浮き立たせていくもののように思われた。
 もうひとつのゲキバカ『ローヤの休日』は戯曲構成にやや弱さはあるものの、俳優たちの躍動する身体とその高いパフォーマンス能力によってそれを補い、ダイナミズム豊かな作品としていた。この身体と俳優の個別性への信頼もまた、かけがえのない演劇の魅力のひとつだ。

 ドラマとは何だろうか?何を生むのだろうか?今回のツアーで、私は何か答えをつかめたか?答えはノーだ。相変わらずわからない。
 ただ、言えることは、今回のツアーで観劇した4作品はそれぞれに違うドラマの持つ役割をみせていた。たとえ用いられるモチーフは限りあるものであっても、そこにどのように光を当てるかによって、その印象は大きく異なってくる。私にできたのはかろうじて、こうした作品たちがそれぞれに違う美意識のもとに生まれてきたのだということを感じ、その美しさ、豊かさに触れ、参加者の方に適宜突っ込まれながら、いくらか言葉にすることだけだった。

 いつ、どんな時にも演劇が有効である、ということを、私には言うことはできない。私は演劇をそこまで過大評価してはいない。しかし、今回の震災のように、大きな変革期に差し掛かった今なお、ドラマは俳優たちを、観客を突き動かす動機として、未だ機能し続けている。
 今回観劇した作品はいずれも大入りであったことは、演劇に期待をかける人がまだまだ居るということを、局所的ながらも示している。そしてもちろん、こうした幸せな作品たちを見て、存分に語り合った私は、またドラマに期待してしまった。
 これからもまだまだ幸せな演劇は生まれてくると思う。自分もそのために尽力したいと、強く思った。


tani
  
  
  
  
  
  
  
  
谷竜一(第3回) | comments (1015) | trackbacks (0)

ただいま大分

2011.04.05 Tuesday | 第3回

ただいま大分して、バイトして、お腹壊して、稽古して、いろいろあってとしてたら、あっという間に一週間たっていました
東京で皆さんにお会いして、まさに演劇漬けの三日間を送らせてもらって、私の中で演劇感は大きく変わりました

当初、人との出会いと演劇の地域性ってのを私は期待して東京に発ちました
人との出会いは期待以上に恵まれていました
同行した福岡・山口の演出家の方々、FPAPの職員のお二人
勉強させてもらいました、お世話になりました、これからもよろしくおねがいします
地域性については、東京は広すぎて、数日じゃあわからなかったです
なんとなーく日本の中でも特別な空気なんじゃないかなーってのはわかりました


ディスカッションについては、最初はうまくできるかなーって不安で、何が得られるかまったく見えませんでしたが
いざ始まるとうまーいことみなさん語り始めてくれて
うまいこと乗っからせてもらいました
楽しかったです

実用的な戯曲テクニックから、演出的テクニック、作品の内容、スタッフワーク、イデオロギーの考察まで幅広く議論が展開され
終わってみれば知らず知らずとたくさんお宝をもらって帰ることができました、盗ませてもらってました
特に戯曲の掘り下げ方はディスカッションをしているうちに少しやり方が見えてきたように思います
あれ以降、戯曲を読むのが楽しくてしかたなくなりました


選んでいただいた作品自体も、ジャンルというか作風というか
どれも違う、だけどもとてもクオリティの高い作品ばかりでした
こういったら失礼でしょうが、どれも数本に一度の大当たりの作品でした

面白いのですが、それゆえにこの後控えているディスカッション、どう切り込もうと頭を悩ませておりました
観ながら頭を悩ませ、移動中は基本ずっと悩ませ
こんな経験は今までなかったです
それだけに恐ろしく集中して注意深く作品を観ることができたし、そうすると観えてくるところもありました


表面だけをなぞっていた自分の演劇が、次回作る作品ではさらに奥のほうまで目とか手とか入れられるんじゃないかという妙な自信は得ることができました
表面とか奥とかどういうことやんとか思われた方はあれです、俺口下手なんで実際劇団背油こってりの舞台まで足をお運びください
ついったーをhiroshixiでつぶやいております、公演情報とかもつぶやきますんでよかったらフォローしてみてください

あ、同ブログでWET BLANKETのエリカクくんに名指しで負けられねえって言われたの僕です
何をもって勝ち負けかわからんけれども僕は負けんと思いますw
ふっふっふw

nakahama
  
  
  
  
  
  
  
中濱博(第3回) | comments (3533) | trackbacks (0)

あれから

2011.04.01 Friday | 第3回

こんにちわ。WET BLANKETの江利角です。

参加者の皆様、お疲れ様です。あれから、数日が経ちました。もう、そんなに経ったんだなと思います。

本当に3日間、すごく有意義なものでした。1本のお芝居に対する視点が変わった3日間でもありました。1本のお芝居で演出や脚本を考え、その後、ディスカッションで、その1本のお芝居について掘り下げていく。しかも、それが4回ですよ。すごく勉強になります。自分の考えはすごい浅はかだったことも痛感し、また、同世代の中濱くんがいて、負けてられねぇって感じにもなりました今回の経験を劇団に還元できたらと思います。

とにかく充実した3日間でした。やっぱり、応募してよかったと心から思うような企画でした。
    
また、参加したいです。

erikaku
  
  
  
  
  
  
江利角直由(第3回) | comments (1740) | trackbacks (0)