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参加者による劇評
参加者が実際に書いた、NYLON100℃「フローズン・ビーチ」の劇評を掲載します。

「フローズン・ビーチ」
諫山 亜希子

 一人の女が電話をかけている。受話器の向こう側へ話している内容からすると、女は「身内に何かがあっても、すぐには日本に戻れない場所」にいるらしい。そんな南の孤島にある、洒落た別荘の一室で舞台の上の話は進んでいく。女は長電話の途中で、一旦受話器を置いた。これから事件が始まっていく。
 サスペンス感あふれる一場で、私にわかったことは「殺したい女」愛(松永玲子)と「殺されそうな女」萌(松永玲子二役)、「裏切る女」千津(峯村リエ)と「裏切る女の友達」市子(犬山イヌ子)、そして「盲目の、やたら笑う女」咲恵(今井冬子)が、この部屋の中にいるということだ。
  しかもこの4人には、愛と千津の「愛し合う」関係と愛と萌の「双子なのに憎みあっている」関係、愛と萌の若い義理の母である咲恵の「なさぬ仲」の関係、そして千津と市子の「奇妙なバランスの友情」の関係という、不可思議な人間模様が見え隠れしている。
 そして舞台上で、「殺されそうな女」が一人、ちゃんと死ぬ。
 しかしながら舞台上の彼女たちとって残念なことに、それぞれの思惑が少しずつずれて、1987年のこの一日は終了してしまうのだが。
 8年後の二場、さらに8年後の三場。それぞれの女たちは立場も関係も環境も大きく変化しているのに、昨日別れた友人と今日再び会うような親密さで、お喋りをし続ける。
 16年という時間は、長い。
 色んなことが変わってしかるべきなのに、変わらないふりをしながら会うのもまた女の友情なのである。それを男性ながらに脚本にし、演出したケラリーノ・サンドロヴィッチ氏の観察眼にどきり、とする。女に生まれたら、必ず経験する女子高のような、人間関係。うんざりしながらも、そこへ身をおいておくことにやぶさかではない、関係。
 そんな女たちの嫌な友情があふれている舞台の中、私は市子にだけ男の友情を感じてしまう。ドラマ「傷だらけの天使」や映画「キッズ・リターン」にでてくるような、忠実すぎる友情を。だからこの話の中で、市子だけが異端児のように感じられるのかもしれない。周りの状況がどれだけ変化しても、市子の千津への友情だけが、不変なのだ。私はそこにほっとし、狂気を一番はらんでいるようにみえる市子を、いとおしく感じるのだ。
 ラストシーン、正直はっきりとはわからない。ただ、人生に行き詰っていた愛はそうするより仕方がなかったのだろう。こめかみにあてた拳銃の引き金を引くより、窓の外へ飛ぶことの方が簡単そうに思えるけれど、実はその選択のほうが残酷なのだと思う。
 そう、人生なんてそうするより仕方のないことばかりだ。そして無残にも続いていくのだ。
 最後に。
 季節外れの別荘を感じさせる、瀟洒なのにわびしさ漂う部屋のセットが、私にはリカちゃんハウスのように思えた。女たちが長い時間「仲良しごっこ」をしている空間が、少女たちの憧れのおもちゃの部屋のようにみえたことが、私にはとても面白かった。

フローズン・ビーチ
古屋 さおみ
 ジャンゴ・ラインハルトのおしゃれな音楽。気づけばそこは1987年、夏。電話中の千津(峯村リエ)は看護婦。友人の市子(犬山イヌコ)とカリブ海辺りの島に住む愛(松永玲子)の家へ滞在中。海が近い。ナイロン100℃「フローズン・ビーチ」<2002年再演を上映・大野城まどかぴあ>シリアスコメディ。
 愛の双子姉妹、萌(松永、二役)は、継母咲恵(今江冬子)の弱点を握り追い詰めるが、激しい争いの末、心臓マヒで亡くなる。そこへ愛に殺意を持つ千津と、元々精神を病んでいる市子の2人に殺されかけた愛が萌のふりをして・・・
 女は怖い、と思わせる第1場。普通ではない市子のキャラクターは印象的。松永の二役演じわけは見事。‘クレヨンしんちゃん’並みの低い声色で萌を演じていたかと思うと、そのなまめかしい死体がのぞく部屋へ愛として入って行く。今江が演じる盲目の役だが、演出家の話では「暗くなるまで待って」を参考にさせたそうだ。その割には、焦点が合い過ぎたり、まばたきが多過ぎるのではないだろうか?
 舞台は第2場、1995年の夏へ。人間関係にも変化が。萌の一件で警察に拘留、そして釈放された愛は、島の気候と同じ位陽気に。バブル時代らしく、咲恵はボディコン姿。この2人の関係は良くなった。それと打って変わって、千津には変化が!阪神大震災で日本が大変だった頃、彼女はオウム真理教に入信。土産の八ツ橋に毒を混入したせいで、トークティブ咲恵は言葉すら発せない。市子は指を切断。おまけにレコードは、よりによって美川憲一の♪さそり座の女。
 ありえない!!それなのにいくつも奇跡が起こる。女は凄い。
 台詞に男性の名前は沢山出るものの、1人の男優も使わない事によって、女性達のリアルさ、強さ、前向きさがより伝わってくる。それにも増して、ケラリーノ・サンドロヴィッチによるナンセンスコメディの炸裂っぷりが、20〜30代の客層に受け入れられやすいのではないだろうか?
 時は流れ、第3場、2003年の夏。バブルは弾けた。4人はそれぞれ違う道を進んでいるが、今、沈みかかるこの島に集まる。今度はピンクの髪で千津が、不思議度アップで市子が、見る度に若返っている咲恵が、波乱万丈で大人になった愛が、思い思いに水辺へ飛び込んで行く。
 女同士の結束は逞しい。
 約2時間10分の舞台、休憩無し。場面転換のつなぎに使われる映像(上田大樹)もまた、目を離せない。こういうポップな感覚も、ファンは好むのではないだろうか。第1場には、80年代にふさわしい、「ノルウェイの森」や「サラダ記念日」といった本が出てくるが、16年後は「タイタニック」が登場。時代はどんどん移り行く。そんな世界を書いた、1999年、岸田國士戯曲賞受賞作品。
ナイロン100℃「フローズン・ビーチ」
脚本、演出 ケラリーノ・サンドロヴィッチ
高崎 大志

 舞台は開発中のリゾート地にある建物の一室。リビングルームである。下手の奥にはバルコニーが見え、上手の奥は寝室のようである。舞台の中央にはソファーが置かれている。
この芝居は全部で3場構成。バブルの時代を背景とした第2場は第1場の8年後、第3場は第2場の8年後。この舞台で、観客は奇妙な笑いの衝動に身をゆだねながら、女同士の不条理な愛憎劇を堪能することになる。

 登場人物の5名は全て女性。これに対して女優は4名。
 姉妹である<愛>と<萌>は両役とも松永玲子が演じるのだが、ここがひとつのトリックになっていて、第1幕ではバルコニーから落とされ死亡したかと思われた妹の<愛>が実は死んでおらず、姉妹の継母である<咲恵>(今江冬子)に殺された<萌>と入れ替わり、周囲を欺罔するというサスペンス的なエンターテイメントを成立させている(死因はのちにまったく別の所にあることが後に明らかになる)。

 ケラリーノ・サンドロヴィッチが得意とする、会話の噛み合わなさから来る笑いの構造が、4人の女優の絶妙のキャラクター設定と演技で絶えず客席を笑いの渦に包む。この笑いの構造はモンティパイソンに強く影響を受けたケラ作品の大きな特徴といえる。
 中でも今江演じる盲人<咲恵>の、底抜けに明るいながらもとぼけたキャラクターは、たいへん個性的でもあり、登場人物の関係性をくっきりと浮かび上がらせていた。

 この不条理な笑いの中、作家のもつテーマ性を含んだイメージがふんだんに示される。殺人や復讐、実父を殺されたのではないかという疑心。はてはカルト宗教の素材も盛り込まれ、それでも4人の女性は人間関係を破綻させない。最後にはカニバビロンという虫が、この部屋にしか住んでいないのではないかという発見から、虫が話し出すという不条理きわまりない展開となっていくが、それすらも舞台上の人物は受け入れていこうとする。

  全員がバルコニーから海に飛び込むラストシーンに「世界は不条理で、人間は不可解。それでも希望は持てるのだ。」という作家の言葉にならない思いを強く感じた。

フローズン・ビーチ〜壊れながら、笑う〜

秀嶋 千尋

 世界は壊れていっているのに、なんでこんなに可笑しいんだろう。
 激しい情念がぶつかりあい渦巻いているかと思えば、くだらないやりとりで笑いを誘う。脱力。
 シリアス・コメディというそうである。盛りだくさんのごった煮を飲み込んで、消化できないものを胃の辺りに感じながらも笑わずにはいられない。そんな感覚だ。
 日本から遠く離れた(しかし日本の世相は反射されている)南のある島。一軒家の三階の一室。中央にソファ。キッチン、バルコニー、寝室を備えたわりと贅沢な空間。(美術:加藤ちか) そこで繰り広げられる、1987年、1995年、2003年のある日の出来事がそれぞれ第一場、第二場、第三場で描かれる。
 登場人物は5人の女性。
 愛と萌。美人双子姉妹(松永玲子・二役)。年のころ20歳前後。パパの愛情を巡って生来仲が悪い。大柄な千津(峯村リエ)。愛の幼友達。だがその愛に対しては愛憎入り混じる複雑な感情を抱いている。市子(犬山イヌコ)。ネジが一本とれているかのように少々オツムが弱く、千津にまとわりついている。咲恵(今江冬子)。愛と萌の三歳年上の継母。盲目。実の母を死に追いやったという理由で、特に愛から疎んじられている。
 このたった5人の中で、二つの殺人計画が同時進行するが、計算違い、手違いで、ミステリータッチなのにどこか抜けている。彼女たちも皆、どこか過剰で、どこか抜けている。二場、三場と後日談が続くが、時間の長さ・濃密さともに徐々に物語が短く薄くなっていき、「脱力」に比重が傾いていく印象。また一場では重苦しかった空気が、二場ではガラリと変わり、南国の晴天のもと、ビキニ姿の愛とボディコン・スーツの咲恵(女優たちのスタイルの良さに注目!)が登場、意表をつかれ、愛憎・好き嫌いの人間関係まで変わっている。
 重いのに軽い。悲惨なのに明るくて可笑しい。隆盛を極めたバブル経済がはじけ、気候変動で破滅に向かいそうな世界が展開中なのに、この舞台が悲壮にならないのは何故か?
 ひとつは全編に散りばめられた脱力のギャグ。そしてひとつは音楽。ジプシー・ジャズと呼ばれる音楽があるのを初めて知った。調子がよく軽快だが一風変わったギター・サウンドだ。そして。
 「癒える傷と癒えない傷。/世の中には二種類の傷がある。」 場と場の合間には、その間8年間の話が映像と字幕で延々と語られるが、この言葉はその中で流れた一節だ。(映像:上田大樹) 殺人、復讐、新興宗教、結婚・離婚…何でもありだが、癒えない傷を負った人がいるだろうか。このあたりにも、悲惨なのに悲壮じゃない所以があるのかもしれない。そしてそれを体現する個性豊かな役者たちあってこそ成立した劇世界だと思う。(全員エキセントリックな登場人物だったが、一人くらい内向的な人物を置いても面白かったかもしれない)
 女だけのかなり濃密なドラマ、見終わってから気づいたが、作り手は男性だった…(作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ)

 この舞台で想定されている、世界が壊れていく速度よりも、現実のほうが進んでいる気がして、胃の辺りに黒いものが残る感覚が続いている…
ナイロン100℃「フローズン・ビーチ」
重川 朋子

 心にひっかかる小骨のような、煩わしい記憶。気まぐれによみがえっては、今を無残にかき乱す。
 この“心の疼き”を、ケラリーノ・サンドロヴィッチ(作・演出)は「カニバビロン」というばかばかしい名前の虫として表現した。ポップな表層とはうらはらに人間の弱さ、恐ろしさ、そしてたくましさを感じさせる作品だ。
  舞台は、カリブ海に浮かぶ孤島。ビーチに面した一軒家に、5人の女が集まる。友人同士、双子の姉妹、ママ母。心を病んでいたり、クスリに走っていたり、盲目だったり…悲惨な状況にある女たちの間で重なり合いもつれ合う、殺意や誤解、うそ。
 1987年、女のうち1人が死ぬことから始まるこの物語は、その後8年ごとの1995年、2003年という3場構成で進む。ストーリーは二転三転するが、基本的なセットは変わらないまま。幕間に入る紙芝居のような映像、女たちの関係性や人物像の変化、その年を象徴するアイコン(流行した映画や本の話など)を散りばめたセリフなどによって、時間の推移を表現している。違和感を抱いたのは、1場と2・3場では極端に、物語の質・量のバランスを欠いていること。後半、無理やりラストにもっていかれるような強引さを感じ、集中が途切れた。
 キャストは、犬山イヌコ(市子役)、峯村リエ(千津役)、松永玲子(愛・萌…2役)、今江冬子(咲恵役)…女優4人のみ。1998年の初演時と同じメンバーで、役への理解も深いのだろう、緻密な演技でそれぞれの人間像を際立たせた。特筆すべきは、犬山が演じた市子。つい殺しちゃった…なんていう無垢の狂気に、何度鳥肌が立ったことか。
 だが全体的に、シリアスなシーンの中にも随所に笑いが盛り込まれ、市子と咲恵の言葉遊びのような会話も楽しい。3場では、目が見えなかった人が見えるようになったり、「カニバビロン」がクールな口調でしゃべりだしたり、指が勝手に動き出したりと、もう笑うしかない展開に。ラスト、「カニバビロン」は海に投げ込まれて普通のカニになった…そんなシーンに、煩わしい記憶を乗りこえるヒントを見たのは考えすぎか。
 第43回岸田國士戯曲賞受賞作、2002年再演。そろそろ再々演を…と期待するのは、私だけではないだろう。

ナイロン100℃「フローズン・ビーチ」
中川 貴美子

 登場するのは女優4人のみ。しかし「細雪」でも「若草物語」でもない。「フローズン・ビーチ」は、しゃれた映像と古いレコードを思わせる叙情的な音楽で幕を開ける。
 第1場は1987年。どこか南の島に立つ別荘のリビングルーム。裕福な実業家の娘・愛(松永玲子)と双子の姉・萌(松永二役)が住むこの家に、愛の幼なじみの千津(峯村リエ)が友達・市子(犬山イヌコ)を連れて遊びに来ている。
千津が姉と国際電話で会話をする冒頭から、「子猫物語」や「ノルウェイの森」といった世相ネタを盛り込みながらの、ボケとツッコミの連鎖が観客を飽きさせない。おかしな会話に笑っているうちに愛が姉と若い継母の咲恵(今江冬子)に、一方千津は愛に殺意を抱いていることや、市子が無邪気な言動に底知れぬ狂気を秘めていることがわかってくる。
 1場は千津と市子がバルコニーから愛を突き落とすものの、実は生きていた愛が心臓マヒで急死した萌と入れ替わったり、萌を殺したつもりの咲恵が仰天したりとサスペンス・コメディらしいドタバタ殺人劇が繰り広げられる。

 2場は8年後の1995年。千津は自分をだました愛に復讐するべく、お土産に毒を仕込んで市子とともに愛と咲恵のいる別荘に来ていた。毒殺未遂の果ては刃傷沙汰となり・・・。
 描かれるのは離婚や流産、会社倒産、夫の自殺といった悲惨な人生を背負いながらも仲が良いのか悪いのかよくわからない4人の女たち。年数を重ねても女のおしゃべりや一種のなれ合いはとどまるところを知らず、凄惨な話なのにどこかカラリとした印象を受けるのが不思議だ。狭い水槽で金魚を飼っている子供がじっと眺めているような、ケラリーノ・サンドロヴィッチの視線は同意するでも共感するでもなく。刹那的な楽しさと面白さがこの作品の持ち味なのだろう。合間に挿入される音楽と映像(上田大樹)のセンス、女優たちの演技力と個性がかもし出す、“リアルなリアリティのなさ”が一番面白かった。
 それにしても包丁で切り落とされた市子の指がくっついたり、その指が刺殺された千津を生き返らせたりと話はどんどんシュールになるが、まさか冒頭から出没していた虫・カニバビロンがラスト近くにポルトガル語でしゃべろうとは、登場人物のセリフではないが本当に「わけわかんない」SFチックな展開ではある。

 さらに8年後の3場では、水没しつつある島に戻ってきた4人がしゃべる虫に説教され、別荘のバルコニーから海に飛び込んで楽しそうにはしゃぎだす。
 誰もいなくなったリビングルームに「フニクリフニクラ」の、底抜けに明るい歌声が響きわたるラストシーンには思わず「やられたー」と笑いだしてしまった。

  この「わけわかんない」が最大の賛辞なのかもしれない。
渚にて、もしくは生死の狭間(はざま)で。
マヤ 北島

NYLON100℃ 23rd SESSION『フローズン・ビーチ』(再演)
作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
収録:2002年7月、於・紀伊國屋ホール

 舞台は、中南米とおぼしい小島の別荘。そこに集う五人の女たち、市子(犬山犬子)・千津(峯村リエ)・愛(松永玲子)・萌(同、二役)・咲恵(今江冬子)の、16年にわたる愛憎劇である。

 ケラリーノ・サンドロヴィッチの芝居では、海は異界であり黄泉(よみ)だ。『カラフルメリィでオハヨ'97』に波の音が響くとき、痴呆老人の夢幻世界と現実は交錯し、連作『フリドニア日記』シリーズでは、海中に死者の国がある。後者はコロンビアの作家、G・ガルシア=マルケスへのオマージュだが、日本神話でも理想郷「常世(とこよ)の国」は海の彼方にあるとされ、しばしば死者の国と同一視される(*)。そして海は、ユング心理学でいう「集合的無意識」にもつながる。論理以前の奇怪なイメージがあふれる、心の深淵のメタファでもあるのだ。
 本作でも、波の音は異界の扉が開く合図だ。生と死の境は曖昧になり、ナンセンスは現実感を侵食する。切断された市子の親指は空中に「ゆ・び」と文字を描き、いったん絶命したはずの千津は息を吹き返し、羽虫は人間たちを嘲笑する。これはいったい惨劇か神秘現象か、はたまた出鱈目か?海と陸が接し、生と死が入り混じり、虚と実がせめぎあう渚(ビーチ)。ここは、そんな混沌空間なのだ。

 ラストシーンに注目しよう。第三場の別荘は、地盤沈下で階下まで水没しており、つまり「脱論理世界」が喉元まで迫った状態だ。そこへ市子が怪虫カニバビロンを追って飛び込む、するとその水音を合図に廃屋の灯が点り、場違いに陽気なレコードが轟々と鳴りはじめる。ナポリの観光ソング『フニクリ・フニクラ』だ。登場人物を呑みこみ舞台上へ溢れ出た「出鱈目の国」の、歓喜の歌であろうか?激しい不協和感が素晴らしい。異界に呑まれ、生死の意味や虚実の境の無化した世界で、最後は海ではしゃぐ女たちの嬌声で幕は閉じられる。生きている意味などないし、死ぬのだって大したことじゃない……ケラのニヒルな死生観が色濃く現れたエンディングだが、これは人生の否定ではない。でなければ、皆こうも楽しそうに笑ってはいまい。

 1987年、パンクロッカー時代のケラは歌っていた。
> 僕らはみんな生きているモノ
> 生きているモノに意味はない
> そこに意味があるかな?
(有頂天『AISSLE』より『僕らはみんな意味がない』、作詞・作曲:ケラ)
これは、ケラ流の裏返し人生賛歌ではなかろうか。思えば、常にカラカラ笑っていた咲恵は、快活というよりはニヒリストだ。人生に何にも期待していないからこその、底抜けの明るさ。彼女こそが、劇中世界観を体現する中心人物だったのである。

* 代表例は、浦島太郎の竜宮城。映画『ゴジラ』(1954)も、常世の国の使者の一変奏といえよう。
ナイロン100℃「フローズン・ビーチ」
真野 風来

 「フローズン・ビーチ」は、いろいろな楽しみ方ができる作品だった。
 南方の架空の国という奇抜な設定、サスペンスタッチのストーリー展開、テンポある会話と意表つく「会話のずれ」の笑い、4人の女優の小気味良い演技、予想外な結末・・・・
 舞台は海辺の1軒屋の3階、中央にソファー2つ、ガラス窓の向こうにベランダ、上手に寝室、下手に台所。ストーリーと役者の動きにマッチした舞台美術だ。
 3場構成で、それぞれ8年の空白期間があり、その空白を幕間の映像が埋める。
 1場は1987年の夏、千津(峯村リエ)、市子(犬山犬子)が愛(松永玲子)の家に来る。父の後妻で目の見えない咲恵(今江冬子)と双子の姉萌がいる。千津は、少し心を病んだ市子に愛を殺す計画を話す。一方、愛は、咲恵へ反発し、萌への殺意を持っている。事件は突然起こった。ベランダ越しに市子が愛を突き落とす。千津は動揺する。咲恵は萌を殺そうとするが、心臓マヒで死んでしまう。愛は、死んでいなかった。愛は萌の死体と入れ代る。矢継ぎ早の展開だが、女同士の毒を含んだ親しい関係を、4人の女優が小気味良く演じている。また、ケラ作品の独特の間と会話のずれに思わず笑ってしまう。
 特に犬山犬子は、ケラ作品の申し子らしく、すっと心の闇のなかにいて動かない難しい役を好演している。愛と萌は、違いが強調され過ぎて、2役の妙が生かされていなかった。
 2場は8年後、オウム事件の頃、ベランダにビキニの愛、ボディコン姿の咲恵。大胆な姿は、わだかまりのなくなった2人の関係が見えて効果的だ。今江冬子のゆとりある演技がきいている。千津は、騙していた愛や咲恵を恨んで毒をもる。怒った愛はナイフで千津を刺す。
 3場は更に8年後 バブル崩壊の頃、地盤沈下で島全体が沈み、退避命令が出ている。愛は夫の自殺などで傷ついて、死場を求めて家に戻ってくる。水面の波音と照り返しが音響と照明でうまく表現され、迫り来る崩壊の予感を醸し出す。
 千津、市子、咲恵は、それぞれ幸せな生活ぶりを話す。突然、この家に住み着いていた虫「かにバビロン」の無機質な声、市子が興奮し「虫に見透かされている・・・」と叫ぶ。見栄の鎧を脱ぐように、市子、千津、咲恵は、不幸だった自分の過去を素直に話し出す。市子は、海に飛び込む。千津、咲恵がそれに続く。愛は、ピストル自殺を諦め海に飛び込む。誰もいなくなった部屋に、海で戯れる4人の嬌声が聞こえる・・・。
 この奇抜な設定こそ、ケラ作品の真骨頂だろう。「笑い」「女性」「世界の崩壊」をうまく絡めた不条理劇のように感じた。
 危機に向かって変容する世界に対する個人の実存の「あやうさ」、偶然と必然の間で漂う個人の実存の「あやうさ」をサスペンス・コメディーに託しているようだ。

 そして、ケラが真に描きたかったのは、この不条理の中で「けなげに」生きている人への「いとおしさ」ではないだろうか。

 

 
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