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平成16年6月2日
劇場に顔はあるか?
FPAP理事長 安永史明
 
はじめに

 今年も、雨の中、博多みなとまつり(通称、どんたく)が開催された。多くの観光客が福岡を訪れる。
ぽんプラザにも、遠来の客が多かったようだ。そして、それらの人々の多くの質問は、福岡の下水道について。
まあ、そうだろう。恐らく誰一人として、ぽんプラザの4階に、ホールがあること知らない。それは仕方がないとあきらめよう。なんにしろ、観光客だ。
しかし、では福岡市在住の市民で、その事実をいったい何人が知っているだろうか? 
いや、そんなことより、そもそも、どんたく期間中に、まるで休日に歩調を合わせるように、ぽんプラザでは劇団の公演がなかったことの方を重要に考えたい。
確か、昨年もそうであったように記憶している。まさに、文字通りぽんプラザホールは、「福岡市 音楽・演劇練習場 祇園分館」なのだ。
劇場とはいえない。
しかし、そもそもホール(劇場)には劇場なりの顔があってしかるべきではないか。
不定期ではあるが、「劇場が顔を持つ」ということについて考えていきたい。

劇場が顔をもつということ

公共性という概念が、変化しはじめて久しい。
もちろん、社会の中で部分的に残ってはいるものの、こと文化行政については、いわゆる伝統的な、公共サービスは国家(あるいは自治体)が提供するという構造から、確かな変化として、それまでは享受するだけであった市民(ここでは地域住民などという規定を外した概念とする)が自らの価値観や問題意識を持って新しい公共性を模索することによって自らの公共性を獲得するという構造へ変化してきているように思われる。
そして、また自治体もその動きに新しい活路を求めているような印象も受ける。
そのひとつの例、試みとして、福岡市演劇音楽練習場祇園分館、通称「ぽんプラザ」の受付業務委託を位置づけたい。
もちろん、それは「ぽんプラザ」受付業務の委託であるから、「ぽんプラザホール」とは、直接には関係がない。しかし、自治体が公設公営と民設民営の中間形態として(たとえ部分的にしろ)新しい形式を望んだことは間違いあるまい。

さて、ここで公設公営の施設のこれまでの形式をざっと整理しておきたい。
単純に言えば、ホール運営は地域住民に開かれた受動的なシステムであったゆえに、施設はホールという名称は持っていても、実は芸術のためのホールではなく、多目的な領域をカバーする公会堂であったといえよう。演劇にかぎっていえば、ハード面での環境整備型、つまり貸し館制度を一歩も出ることはなかった。
もちろんそのことを悪いと言っているのではない。演劇創造を目指す地域のすべての人々の利用に対応することが優先されるわけだから、公正な基準を設けるとすれば、ある程度の受益者負担による貸し館制度ならざるを得なかったのだろう。貸し館という制度は、そういう意味ではすべての人々に開かれており、それがまさに公共性を保証するということだったのである。
しかし、恐らく問題はそこにあって、それが、実は公設公営の施設が劇場になれないひとつの要因でもあったように思う。しかし今、公共性という概念が変化しはじめ、私たちは、新しいホールの運営方法を模索し、そのことでホールが劇場としての顔を持つことを考えていかねばならないような気がする。それを保証する新しいシステムを構築していかなければならないだろう。それが営利である故に民間の劇場では利潤の追求が前提となる。しかしだからこそ、公設ホールの在り方を捉え直すことにより、新しい舞台芸術の創造を社会システムとして捉え直す視野が必要だ。

まず、公的施設を利用しての自主事業の展開を考えてみたい。自主事業の中には、公演する創造団体の選択も含まれる。
施設としては受動的なシステムである貸し館制度をすぐに撤廃することは現実的ではないから、不定期に(あるいは定期的に)公募によって企画に参加したい市民、NPOなどによる自主事業枠を確保するというのはどうであろうか。利用者の公平性を確保するために、抽選制度や利用期間の設定を設けているのが実状である公的施設のままでは、地域の芸術創造の質を高めていくことにはならないように思う。公共性の概念をもう一度改めて問い直すべきではないか。劇場に日頃出かけることのない人までも視野に入れて、地域全体に対する公益的な眼差しを持つのである。
当然のことながらそれには責任が伴う。その責任を担う自主事業の展開を考えたい。それを支えるのは、創造的舞台芸術は人間の生き方を考えるものであり、その意味ではすべての人々と地域を意識しているという確信である。
こと、舞台芸術創造は、消極的な平等主義では通用しない。優れた創造作品や創造者は、競争と選択という原理を経ないと生まれないものだ。自主事業は市民や創造者を取り込んだ執行機関、評価機関の眼に晒されながら、実施、運営してゆく。それが新しい公共性の確立に繋がると思うのだ。もちろん、批判は起きるだろうし、論争は避けられないだろう。しかし、その中から新しい地域の方向性が生み出されるのかもしれない。どのような方向性を見出していくのか、そこに地域や施設の個性が生まれるはずである。

では、その自主事業には、どういうものが考えられるか。しかし、それは最終的な目標である。
その前にしなければならないことがあるように思える。それを整理しておこう。

1.管理スタッフからの離脱

これまで施設設備管理が主たる業務であり、施設を利用する芸術創造側の要望によってだけ創造活動に参加していた舞台設備管理者の在り方を検討していかねばならないだろう。技術サポートの充実である。そのためのセミナー等を企画して劇場設備を十全に使い切り、劇場としての特性を打ち出すことも考えられよう。それは、複雑で高度な劇場設備を使い切るという意味でも必要なことである。単なる管理要員として技術者ではなく、創造プロセスに積極的に入り込み、使用する芸術創造側とともに優れた舞台芸術の創造を確保するために、である。稽古から技術プランの作成、上演オペレートなど、劇場独自の空間を知り尽くした者でなければわからないことがあるはずである。そういう試みなしには、劇場は、貸し館システムから永久に離脱できない。

2.集客能力の向上

劇場はあるのではない。それは日々生育すべきものと考えたい。具体的に言えば、劇場そのものが独自の情宣とその媒体を確保する。そして集客能力を持つ。そのための友の会や、会員制の組織化、団体客の勧誘、優待制度の創設などというベクトルが必要である。言うまでもないことだが、従来の観客と創造集団との関係は、閉じた関係であったように思う。劇場で形成されていながら、劇場を抜きにして濃密なあるいは疎遠な関係があった。その構図を問い直すべきだろう。つまり、劇場が質的な責任を負うことで、開かれた空間ができるとは考えられないだろうか。ぽんプラザのような規模の施設の利点は上演回数に収斂される。1回の公演で500人の観客を集めることができるなら、5回の公演を行った方がよい。舞台創造は回数を重ねることによって、質の向上は図れるはずだから。そして、それが最終的には上演水準の向上に繋がる。それはつまり、観客を劇場に呼び込む最もシンプルな方法であろう。

3.芸術創造団体の発想の転換へ

舞台芸術創造団体にとって、公演施設は安ければよい、その上アクセスがよければ更によいという程度の単純な発想による認識が強く、管理運営には踏み込んでいない。そのことを今ここで非難しようとは思わない。しかし、今後の在り方としてはもう一歩先に進んだ発想を提示したい。舞台芸術創造には、創作者(芸術家)制作者、観客、チケット流通機構、舞台技術者、報道関係者など関わりのある人々を組織化するという発想が必要だろう。特に制作組織、観客組織、チケット流通組織、技術組織を劇場が担当すれば、創造劇団の負担はかなりの割合で軽減され、長い目で見れば作品そのものの質的向上につながると思われる。劇場側のこうしたサポートシステムの創造を芸術創造団体が積極的に受け入れるという発想が今望まれることではないか。そして、もちろん、できれば自主事業を視野に含めた創造的領域にも関与できる余地が残せればそれに越したことはないと思われる。

公設公営の施設を公設民営に移行させるには更に考えていかなければならないことが数多くあるだろう。しかし、おそらくその端緒はどこかにあるはずである。
「ぽんプラザ」が劇場としての顔を持つことになるのはいつのことだろう。

 
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